法然寺は平安末期、建久8年(西暦1197年)に源氏の武将、熊谷次郎直実が法然上人の弟子となって51歳に出家した後に、両親の菩提を弔う為に作ったお寺です。
ご本尊は、法然上人五十三歳の時の自作尊像です。
(上人五十三歳の時の御姿)
戦国の武将であった熊谷次郎直実は十六歳の平敦盛を戦いで討った事は有名です。それだけでなく武将としての歴史に残る戦いにも大きな手柄を幾つもあげました。しかし武士ににあるまじき、味方を裏切ったり、敵と内通したりした事もあり、その人生は波乱万丈でした。その自分の人生に怒りを覚え、自決する決心をして、世に聞く高僧である、法然上人に見届けて頂き、極楽への旅路を希望し、この時初めて法然上人にお出遭いし、法然上人より、どんな罪人でも阿弥陀さんを信じたら誰でも極楽往生が出来る、仏教の慈悲に初めて触れ、周囲の反対にもかかわらず出家をします。
出家後は蓮生房(れんせいぼう)と言うお坊さんの名前に変え、まず敦盛の供養を高野山でしてから京都に滞在しながら、慈善事業の世の為、人の為、自分の全ての財産を使い学校や橋や道や沢山の寺院も作りました。大きな功績を残してくれましたが、財産を全て無くし、先祖が途絶えてしまい、大きな犠牲を支払った事に対して我々は感謝したいと思いますが、皆様は如何でしょうか?
特に法然上人が浄土宗を開宗された時期には、蓮生房は資金的に法然上人と浄土宗を支援して頂いたからこそ、「浄土宗」が現在の大きな教団して残った事は史実であると思います。皆さまは如何お思いになるでしょうか?
最初、法然寺は京都市内の真ん中、四条烏丸の北の、烏丸錦小路通りの「現在残されている地名、元法然寺町」にありました。その後の法然寺は、正応年間(1289~1292)には、ご病気であった第92代伏見天皇からの手厚い加護を受け、続いて第105代後奈良天皇、第106代正親町天皇の勅願寺となる。その間には足利義政や豊臣秀吉からの扶助も受ける。徳川幕府から三百石と御朱印を拝した。京都市内を転々とし、四条通り寺町下るから、この嵯峨の地には約六十年前に転居してきたので、嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない。