【概略編】
今から凡そ八百五十年程前の平安時末期から鎌倉時代に源氏で活躍した武蔵の武将です。一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)の合戦で、敵方の平 敦盛の首を取った事は、歌舞伎などでもよくしられているところです。源 頼朝が鎌倉に幕府を開き、時代も鎌倉時代へとなり、源 頼朝の絶対の信頼を受けておりました。
しかし、武士として生きる事に失望し、又 ある事件で源 頼朝との仲も壊れて、出家して法力房蓮生(ほうりきぼう れんせい)という法名で、沢山のお寺などを京都などで創りました。
【詳細編】
熊谷次郎直実は永治元年(1141)に大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)生まれ、弓矢丸と言う幼名でした。二歳の時に父が亡くなり母方の弟、叔父さんの久下 直光(くげ なおみつ)に育てられ、その環境にもめげずに勉学に熱中し、その事が成人してからの直実の人間性に大きな影響を与えます。
そして又、弓や馬の武術にも暗くなるまで励み、又荒川での水泳や河原での大きな石を持ち運び、身体を鍛え、亡き父に負けないような立派な強い武士になろうと武芸の道にも励んだので、周囲の人々が驚くほど、たくましく育っていきます。
弓矢丸が十五歳の春を迎えた、久寿二年(1155)に叔父さんの直光に元服の儀式をして頂き、名前を熊谷次郎直実と名のります。
直実が元服をした翌年の保元元年(1156)に保元の乱が起こり、源 義朝(みなもとのよしとも)の家来として、初めて戦場で初陣を飾りました。
それから平治元年(1159)に平治の乱が起きます。この戦は、義朝が平氏の平 清盛(たいらのきよもり)を討とうとした乱で、直実は騎乗から勇ましく戦いましたが源氏が敗れました。
この後二十年間は平氏の全盛期時代になり、仁安二年(1167)平 清盛は武家として初めて太政大臣と言う朝廷の最高の地位に就き、平氏の多くの一族が朝廷の要職に就き、日本の約半分を平氏の支配下におきました。
嘉応元年(1169)叔父さんの直光が、諸国の武将が三年交代で上京し皇居(御所)の護衛や京都の都の警備につく、奈良時代から続いている地方武将の勤めで、格式の高い役目である大番役を命ぜられます。
叔父さんは高齢と言う理由で、家族の反対を押し退けて、その職務を直実に譲りました。直実は源氏の命を受け叔父の名代として京の都に来て、大番役の大任を立派に果たしますが、何分叔父の代理の仕事でありますので、周りから良い目では見てもらえず、賞品めあてと日頃のうっぷんとを晴らす為に、賀茂の河原で行われた相撲大会に飛び入り参加をして優勝をします。
その勇ましい直実の姿を、敵方である平家の平 知盛(たいらのとももり)に気に入られ、物・金・色で平家の家来になります。それを知った叔父、直光は勘当し源氏からも追放されますが、直実は日頃から代理と言う事で軽く見られたりして、内心面白くなかったので、一向に気にも止めず、当時の羽振りも良かった知盛に仕えます。知盛は清盛の三男で、後の壇ノ浦の合戦では指揮を取り、負けたと知るや否や鎧(よろい)を二枚着て海に身を投げた武将です。
治承四年(1180)源 頼朝は平家打倒と兵を挙げますが、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏の大軍にかかり、無残に負けます。その時直実は平家方について戦っております。この戦いに負けた頼朝は山の洞穴に隠れていたのを直実が見つけ、逃がすか、捕らえるのか悩んだ末、自分にも源氏の血が流れていると考え、頼朝を無事平家から救い出します。命を助けられた頼朝は直実の源氏追放や勘当をとき、関東一体の源氏の勢力を鎌倉に集結した時には直実も頼朝に忠誠を誓い、再び源氏の家来になりました。
治承四年(1180)十月に再び平家と源氏で、富士川の合戦があり、この時には直実が一案を投じ、闇の中で河原の水鳥に石を投げ、それに驚いた水鳥の飛び立つ騒ぎを平家は源氏が川を渡り攻めて来たと誤解して、平家は我先へと京の都に逃げ帰りました。これに勢いづいた頼朝は、茨城の金砂山城(かなさざんじょう)の戦いに勝ち、源氏の勢力も大きく拡大し、直実も常に一族郎党をつれ先頭に立って武功をあげました。この頃より直実は頼朝の信頼も益々厚くなってきます。
寿永元年(1182)頼朝は直実に熊谷地方の、税金を取りたてたり、土地を管理したり、又今の警察のような役目である、地頭職に任命します。
寿永三年(1184)世に有名な、頼朝が平家、木曾義仲(きそよしなか)を討った、宇治川の戦いがありました。十六歳になった我子、小次郎直家(こじろうなおいえ)と共に大手柄を立て,その勢いで京の都に攻め入り、闇の中で平家の殆どの武家屋敷を壊し、その勢いで一ノ谷の合戦(兵庫県神戸市須磨区)で勢力のおちた平家が逃げ回る中に立派な若武者を見つけ、『返したまえ!返したまえ!敵に後ろを見せるのは卑怯ぞ。戻って尋常に勝負せい』と手に軍扇(ぐせんと云い、竹でなく鉄で骨が作ってある扇)を打ちふり、若武者との一対一の勇敢な戦いになりました。直実はたちまち若武者を組み伏せてしまいますが、近くで良く見ると相手は未だ幼く、逃がそうと思いますが、味方の軍勢が大勢駆けて近づいてき、時の慣わしで敵方の武将は、なぶり殺しにされる事を避ける為に『汝はや、助かるすべもなし』と、震える刀で若武者を討ち取りました。直実の目には涙が光っていました。
その若武者は十七歳の平 敦盛で青葉の笛を大切に持っておりました。直実は笛の名手で心優しい敦盛を討った事に戦の無常を強く考え、敦盛の首をさらすでなく、源氏の反対を通し首と遺品を敦盛の父、平 経盛(たいらつねもり)に詫びの書状を送ります。これを熊谷の送り状と云います。末っ子の敦盛を大変案じていた父は、直実の暑い心に感激し『ありがたきかな、ありがたきかな。このような武人の手に討たれしは』と落ちる涙もぬぐわずに御礼の返事を寿永三年(1184)二月十四日にしたためました。これを経盛の返し状と云います。文治元年(1185)屋島の合戦、壇の浦の合戦で負けた平家一族は滅亡して、源氏の世になりました。
源氏は鎌倉に集結し、直実も頼朝に一番近い武将として仕えましたが、流鏑馬(やぶさめ)の的を持たされた直実は粉の低い役目に自尊心を傷つけられ二人の関係が冷え切ります。これ以降直実の勇ましい姿は見られなくなり、心の苦悩は日毎に深まっていきます。
無敵の剛勇無双と云われていた直実も単なる荒武者ではありません。建久元年(1190)敦盛の七回忌にあたり、その菩提を供養する為に高野山に入り立派な熊谷寺と云う寺を建立し、敦盛の霊を厚く弔いました。直実五十歳の時でした。
建久三年(1192)源 頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開き、初めての武家の政治が始まりました。これから日本の歴史も大きく変わりました。その頃直実と叔父、久下 直光との間だの領地争いを頼朝が真剣に考えず、直実の領地が少なくなった事に不満が一気に爆発し、まして自分が手柄を立てる事や金銭にばかりとらわれていた生き方に空しさを感じ、家族や頼朝の制止を振り切り、武士を捨て仏門に入る決心をします。
建久四年(1193)の春。五十三歳の直実は京都におられた法然上人の草庵を訪ね、『今までに大勢の人を討ってきた。今は大変後悔をしている。こんな私でも仏は救ってくれるか』と厳しい表情で法然上人に真剣に問いただしたところ『罪の多少にかかわらず、念仏を申せば誰でも往生できる事に疑いありません』と申され、初めて仏の慈悲を知りました。その仏の教えに感動、感激し法然上人のお弟子となって出家しました。法然上人より、泥沼の中でも、濁り無く蓮のように清らかに花を咲かせる心を持って生きると言う、法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)と言う名を与えられました。略して蓮生(れんせい)と呼びます。入門して間も無く蓮生は、法然上人が生まれた岡山県に誕生寺と言う立派なお寺を創建します。
再び京の都に戻り法然上人にお仕えしながら三年間熱心に仏教の勉強に取り組みます。建久六年(1195)の八月に法然上人とお別れをし、泣く泣く故郷の埼玉県、熊谷市に帰る決心をしました。法然上人より上人自らの五十三歳時の自作尊像を戴き、鎌倉にも立ち寄り、将軍 頼朝とも対面しました。
建久七年(1196)春に、五十六歳の蓮生は、やはり自分には法然上人の側が最も良いと思い京に向かいます。この年に叔父の、久下 直光が亡くなります。
建久八年(1197)の五月に自分の居場所を確保する為に、法然上人から戴いた自作尊像を本尊としての、法然寺を創設した。蓮生は五十七歳でした。翌年の建久九年(1198)には栗生(あお)の光明寺を作ります。その後にも沢山のお寺や道、橋を都に残してくれました。
元久二年(1205)の春。六十六歳の老齢を感じ、死期を悟った蓮生は法然上人や親鸞上人や弟子達との別れを告げ、懐かしい熊谷へと戻ります。その旅道中は源氏の武士の死者の弔いをし、人々には熱心に念仏の道を説いて回りました。その中でも昔仲間の源氏の武将、宇都宮弥三郎頼綱(うつのみややさぶろうよりつな)は蓮生の生き方に心を打たれ、自らも出家をして法然寺の第二世となり,蓮生(れんしょう)とよばれました。
承元元年(1207)九月四日に自分の創設した熊谷寺(ゆうこくじ)で死期を予告して大往生を遂げました。蓮生六十七歳でした。
【終わり編】
直実公は武将として勇ありなさけある、日本一の剛の者と称えられ、また仏門にあっては、法然上人より坂東の阿弥陀仏と崇められた名僧となりました。
平安末期から鎌倉初期にかけての動乱の世の中に生きた波乱万丈の生涯でした。晩年は生まれ故郷で安住の境地にひたりながら、安らかな一生を終わりました。